茂木さんと初めて会ったのは86年の夏頃だったから、今日の弔辞によれば高崎映画祭の第1回を始めたころだったようだ。当時はNTTの作業服を着ていて池の工業団地の配線の打ち合わせをしたような記憶がある。
次に見かけたときは選挙の投票にきたときで、ブランドものの黒く長いコートを着て、電車の帰りのようで本を4、5冊抱えて、投票所に現れた。「結構かっこつけてるなあ」と思ったがその後の俳優や映画監督との交渉などの苦労話を聞くと「業界の人」のようでいなければいけなかったのかなあと思う。
夜中の柳川町で、作業を終えたあとのようで高崎映画祭の若いスタッフとギョウザを旨そうに食べていたのを見かけたときは、「若いスタッフとはしゃいでいるけど大変だなあ。」と思ったものだ。こちらは3次会で泥酔している午前2時頃であった。
私達星空の映画祭の活動にもよく来てくれた。今まで上映した作品の9割は茂木さんの手配によるものだった。ご兄弟を水の事故で亡くしてからしばらくして、夏休みの小学生の兄弟が鉄塔をたどる「鉄塔武蔵野線」を「いい映画だから上映してみたら」と夏の上映会にすすめてくれたのも、小さい頃の兄弟の思い出があるからかなあと思ったものだ。
酒を飲み始めるととことん飲んじゃう人で、退職祝いでご自宅にお招きいただいたときは高崎映画祭のチケットとパンフを渡されたが、預かったわしも飲みすぎた。朝目が覚めたらわが家の畳の部屋にチケットの袋があり「モギさんのうちから持ってきた記憶がないぞお」と二日酔の頭で反省していたら電話がきた。「モトパン君俺昨夜チケット渡したっけ」と。
東京から沢山の映画関係者が来た今日の告別式は焼香の列は絶えなかったが、吉井町の式場にしたのも地元を大事にしてくれた茂木さんのご遺志であるような気がしている。吉井の夏まつりでは山車に随行し、子ども達とはしゃいでいたのをよく見かけた。麦わら帽子をかぶり、お祭りの手ぬぐいを首に巻いた姿は「高崎映画祭のモギ」というより「下長根のおじさん」であった。吉井町を大切にし、地元に溶け込んでいた。
高崎映画祭の根岸さんや志尾さんが引き継ぐ茂木さんの遺志と、私達が引き継ぐ茂木さんの遺志は、引き継ぐものの大きさに雲泥の差があるが、今年の私らの総会の時に夏の行事について川も台風で荒れたしと、縮小後退するような案が出たときに「永遠に続けろ」と激しく励ましてくださったことをいつまでも忘れずにいて活動していきたいものだ。
マーティン・スコセッシのストーンズの記録映画予告編だけで滅茶苦茶かっこいい。茂木さん亡きあとでもこれからも音楽系統のドキュメント上映して欲しいと思う。
「風のガーデン」の奥田英二演ずる二神が亡くなった直後に、同じくガンを患う主人公のキャンピングカーの窓に来て「先に行っているよ」というシーンを昨日ビデオで見たが、今日告別式で茂木さんが亡くなった時間を聞いて腑に落ちたことがある。土曜日の正午すぎに誰もいない家で本を読んでいたのだが、鍵が閉まっているのに誰か室内に来たような音がした。長男が帰ってきたかと思って呼んだが鍵はしまったままだった。不思議だった。
テレビドラマと同じにしては不謹慎だが、異界に旅立つ前に頑張れと励ましに来てくれたような気がしている。